企業·IR情報広電の歴史

電車開業の前後 広島電気軌道時代(明治42年~大正6年)

競願と会社設立

明治時代の終わりごろ、広島城の堀を埋立てることになり、その埋立地に路面電車を敷設しようという機運が高まりました。いくつかの会社が鉄道院に申請しましたが、電力業界ですでに有力な起業者となっていた東京の松永安左衛門、福沢桃介のコンビが「広島電気鉄道株式会社」を設立し、着実に計画を進めていました。

しかし1年遅れの明治43年(1910年)に大阪の大林組社長、大林芳五郎も「広島電気軌道株式会社」を設立して同じような計画を申請し、最終的にはこの2社の競合となりました。2社の対立は間に入った広島県の調整も不調に終わり、険悪なムードとなりましたが、大林が単身松永を訪れ、一夕の談笑にて解決しました。このことは当時奇跡と見られましたが、誠実な大林に対して太っ腹の松永が譲ったものとも考えられます。

城濠埋立用地問題

こうして明治43年2月7日「広島電気軌道株式会社発起人」に対して軌道敷設の特許が下りました。用地買収では、広島城の堀を埋め立てた用地の払下げでひと悶着ありました。

当初、広島電気軌道は全線を専用の軌道として建設する計画でしたが、市会(市議会)から、道路を建設してその上に電車の線路を敷設してはどうかとの意見が出されました。広島電気軌道は、それでは買収しなければならない土地が広がって用地費がかさみ、とても採算に合わないから、堀の埋立地は工事費を負担するだけで払下げてほしいと広島市に要望しました。広島市は道路と路面電車の両方が建設されれば街の発展につながると判断し、この願いは聞き入れられました。

電車開業

大正元年11月23日、広島駅~相生橋間、紙屋町~御幸橋間と八丁堀~白島間が開業しました。開業日には神事を行った他、花電車を走らせて、沿線は電車を一目見ようと多くの人が集まったといいます。当日は天気が悪かったようですが、相撲などの余興も開催される予定でしたので、さぞや賑わったことでしょう。12月8日には相生橋~己斐間も開通し、終点の己斐では開業を祝ってさらに派手な催しが繰り広げられ、賑わいました。開業当初は100形電車を50両購入しました。途中にある6本の橋は全て専用橋でした。堀や西塔川を埋め立てた市街地の中心部は道路に軌道を敷設しましたが、それ以外は専用軌道でした。千田町の現在の車庫に発電所を設置し、現在の商工会議所横に変電所を1箇所設けました。

大正4年には、宇品線が運行を開始しました。4月4日から紙屋町周辺と宇品周辺で「広島県物産共進会」という博覧会が開催されたため、これに間に合うよう、急いで工事を進めました。このため京橋川をまたぐ御幸橋は、建設を後回しとしました。御幸橋の電車専用橋が開通して広島駅~紙屋町~宇品間や己斐~宇品間が直通で運行されるのは広島瓦斯電軌株式会社になってから、大正8年5月25日のことです。