企業·IR情報広電の歴史

広島瓦斯との合併 広島瓦斯電軌時代(大正6年~昭和17年)

都市計画道路の建設と軌道移設

写真:紙屋町交差点 紙屋町交差点

大正6年8月2日、広島電気軌道(株)は広島瓦斯(株)と合併し、広島瓦斯電軌(株)となり、同年11月1日には左官町(現:本川町)~十日市町~横川間を単線の専用線で開業させました。一方、都市計画法が施行されたことにより広島市でも大正12年に都市計画を決定し、当社の軌道に沿って幹線道路が建設されることになりました。この都市計画道路建設の進展によって、昭和10年12月27日、宇品線を現行経路に複線で移設しました。また、本線の広島駅~稲荷町間、横川線も都市計画道路の建設に伴って併用軌道となりました。

広島瓦斯電軌は松江市、別府市、福山市といった他の都市への路面電車建設を計画しましたが、いずれも建設には至りませんでした。

宮島線の開業と沿線開発

写真:1000形電車 1000形電車

大正11年8月22日、鉄道線の宮島線、己斐~草津間が開業しました。宮島線は徐々に延伸し、大正15年7月15日には新宮島(現在の地御前~阿品間)まで開業しました。新宮島からは連絡線宮島丸を運行し、これで広島市と観光地宮島が仮につながりました。そこから先、現在の宮島口までは海岸を埋め立てて工事を行ったため難航し、昭和6年2月1日にようやく全線が開通しました。

広島瓦斯電軌は宮島線利用者の増加を図るため、楽々園に住宅地を開発するとともに遊園地を設置しました。楽々園は昭和46年に閉園するまで広島の一大歓楽地でした。

宮島線の他、岩国線や呉線などの路線も計画しましたが、これは実現しませんでした。

市内バス事業の影響と子会社化、合併

写真:広島乗合自動車運転士と車掌 広島乗合自動車運転士と車掌

大正時代の終わり頃、広島市内にも路線バスが登場しました。最初は個人経営でしたが昭和3年に広島乗合自動車(株)が営業を開始すると本格的な路線網を形成し、市内電車にとって脅威となりました。このため広島瓦斯電軌は広島乗合自動車を子会社化して電車との路線調整を図りました。日中戦争が始まるとガソリンやタイヤなどの入手が次第に困難になり、木炭車などの代燃車が登場しました。こういった状況の中、昭和13年2月1日には同社を合併し、自動車部を設立しました