設備の近代化への取り組み(昭和50年代~平成初期)
「チンチン電車」からの脱却
昭和40年代の危機を何とか脱した電車は、昭和50年代に入り、車両や駅施設などの近代化を図っていきます。他都市から購入した中古車両も、経費節減のためにそのままの塗装で走らせたところ、「動く博物館」として注目を浴びるようになりましたが、日々、市民の皆様に快適にご利用いただくためには、「懐かしいチンチン電車」のまま走り続けるわけにはまいりません。旧来型の車両には冷房化などの改造工事を施工する一方、昭和55年には (財)日本鉄道技術協会が新造した軽快電車3500形を譲受け、これを手本として昭和57年から700形、800形など新造車の投入を再開しました。電停施設についても、道路側に柵を設置したり、ホームのかさ上げ、延長工事などを行い、接近表示システムを整備するなど設備の近代化を図りました。
昭和60年頃には、当時の国鉄が広島~岩国間で列車を大増発し、新駅を設置するなど、並行して運行している宮島線の経営に大きな影響を与えるようになりました。当社は、大野・廿日市方面から広島市中心部への直通電車を運行できるという強みを生かし、昭和60年には直通電車を42便増発して、昼間の運行間隔を15分から12分にせばめました。直通運行車両の増強や、広電西広島駅の改築を待って、平成元年には直通電車を110便増発し、昼間の電車を全て直通運行にして、6~7分間隔で走らせるようになりました。
昭和57年には西ドイツ・ドルトムント市の中古電車を購入し、ドイツでの車両塗装や内装を生かしたまま運行したり、昭和59年には広島県の観光キャンペーンに合わせて、開業当時の100形電車を復元しました。平成元年には、広島市の姉妹都市である西ドイツ・ハノーバー市からも電車を譲渡され、運行しています。その結果、広島の路面電車は一つの観光資源として、観光客の方からも親しまれるようになりました。数々のユニークな取組みに対し、昭和59年、鉄道友の会より第1回のグローリア賞を授与されました。
高速バスの時代
昭和50年代に入り、特に西部方面と安佐南区方面に相次いで大規模な住宅団地が造成され、新たにバス路線を開設していきました。一方で岩国線や呉線といった従来からの幹線系統は利用者の減少による減便を余儀なくされ、当社のバス路線網は、次第に近郊の団地路線中心に再編成が進み、収支率も改善していきました。
高速バスは、まず中国自動車道の全線開通に合わせ、広島県北部から大阪へ向かう路線を開設しました。昭和60年には広島自動車道が五日市インターチェンジまで開通したため、広島市内からの高速バス運行が可能となり、三段峡、帝釈峡、もみの木森林公園といった県内行楽地への高速バス路線を開設しました。昭和62年には広島~山口線を運行開始し、折からの全国的な高速バスブームに乗って、平成元年までの間に福岡、鳥取、東京、名古屋、米子といった都市間高速バスを相次いで運行開始しました。松江、浜田といった既存の長距離路線も高速道路へと経路を変更し、所要時分の大幅な短縮を図りました。平成5年には広島空港の移転に伴い、広島市内~広島空港間のリムジンバスを運行開始しました。
現在、これらの高速バス路線は、中国地方の都市間輸送の米子、松江、浜田線、および広島空港(リムジンバス)線を営業しており、順調に推移しております。
バブル時代の到来と賃貸事業への進出
昭和50年代前半までに開発した大規模団地はほとんど完売していたため、バブル期を迎えた昭和60年代には、東観音台やアメニティタウン仁保南など、土地区画整理事業の保留地を購入して分譲住宅の販売を行いました。この時期の売上は年間50~60区画で、昭和40年代後半の活況には遥かに及ばないものの、地価の著しい上昇によって販売額は第二のピークを迎えることとなりました。
昭和63年、本社敷地内に広電タワービルを建設し、オフィスビル賃貸事業にも本格的に取り組みはじめました。それまでは、当社所有の土地に広電不動産(株)がビルを建設し賃貸事業を行っていましたが、これ以降は、当社も自らビルを建設し、賃貸事業に乗り出しました。
高速道路の発達とグループ会社
高速道路の開通は、当社のグループ経営にとって大きな刺激となりました。それまでは山間の過疎路線が大半を占めていたグループ会社の芸陽バス(株)や備北交通(株)は、竹原市や庄原市といった自社エリア内の都市と広島市とを高速道路経由で結ぶ都市間高速路線を新設し、経営の大きな柱となりました。また(株)広電宮島ガーデンは、中国自動車道の吉和サービスエリア、次いで山陽自動車道・宮島サービスエリア、下松サービスエリアに出店するなど、営業エリアを拡大しました。