企業·IR情報広電の歴史

モータリゼーションの波(昭和40年代)

モータリゼーション期の電車

写真:旧大阪市電(750形)の搬入 旧大阪市電(750形)の搬入

全国的に昭和30年代の後半からマイカーが急激に増え、モータリゼーションの時代を迎えます。便利さ・豊かさの反面、交通渋滞、交通事故の増加や光化学スモッグの発生が問題となるなど、これまで誰も経験したことのない新しい時代へと突入します。

広島市内でも、増え続けるマイカーによって交通渋滞が発生し、ついに昭和38年に電車軌道敷内への乗用車の乗り入れが認められました。これによって電車は交通渋滞に巻き込まれるようになり、平均速度が時速12kmから時速5kmへと低下し、利用者も減少していきました。特に昭和43年度には、前年と比較して利用者が12.4%も大幅に減少しました。他の都市も同様の状況にあり、全国各地で路面電車の廃止が相次ぎました。このような状況の中、広島市も昭和44年に地下鉄構想を発表し、地下鉄が開通すれば当社の電車も全廃になると思われていました。

しかし地下鉄が完成する予定時期はずっと先であり、当社としては、当面、電車の赤字を解消し、経営の建て直しを図る必要がありました。そこで、当社は大阪市や神戸市など、路面電車が廃止となった他都市から大型車両を購入して輸送の効率化を図り、ワンマン運行を開始するなどの合理化を進めていきました。また、電車の走行環境を改善するため、広島県警に働きかけ、昭和46年、軌道敷内への乗用車乗り入れが再び禁止されました。これらの取り組みによって、広島の路面電車も何とか息を吹き返したのです。

モータリゼーション期のバス

写真:国道54号線のバス専用レーンと中央線変移 国道54号線のバス専用レーンと中央線変移
(提供:広島市公文書館)

バスについても電車と同様に、昭和40年代に入ってから急激な利用者の減少が始まります。それまでは、路線を新設し、拡大する一方だったバス事業の経営も、一転して不採算路線の整理へと向かいます。また、ワンマン運行も、広島市中心部の路線では昭和38年から、それ以外の路線においても昭和46年からスタートし、合理化を図って行きます。

特に山間部のバス路線において、不採算路線の増加が全国的な課題となり、国は住民の足を確保するための補助金制度を創設しました。この補助金制度は、バス会社の統合や系列化によって無駄を排除することが適用の前提となっていたため、当社は高田郡方面の路線を系列の備北交通に譲渡しました。また、昭和46年の道路交通法改正により、広島市内においてもバス優先レーンや専用レーンが設置され、走行環境の改善が図られました。

一方で、広島市内のバス会社を統合しようという動きもありました。当社は広島バス(株)の株式を取得し、系列化したのですが、公正取引委員会より独占禁止法にもとづく勧告を受け、やむなく株式を手放しました。また、広島交通(株)が一時、当社株式の4%を確保して筆頭株主となるなど、広島市内のバス会社の合併構想も持ち上がりましたが、実現しませんでした。

不動産事業の躍進

写真:毘沙門台市民住宅展 毘沙門台市民住宅展

高度経済成長によって国民の所得水準が上がると、マイホームの夢を実現することが可能になってきました。人口増加もあり、都市周辺では住宅を建てるための宅地が常に不足する状態で、当社も宅地開発に乗り出しました。

昭和44年には不動産部を設立し、「観音台」を初めとして、「月見台」「毘沙門台」「翠光台」といった大規模団地を次々に開発していきました。当時宅地の不足ぶりは深刻で、当社の団地も販売開始すると最大で100倍もの競争率になったり、徹夜で並んで申し込みをする人たちが数多くいたりという活況でした。昭和40年代後半の最盛期には、広島でトップの年間500区画もの宅地を販売し、電車・バスの赤字を補うなど、不動産事業が当社事業の3本柱の一つとなりました。

レジャー産業の隆盛

写真:広島ボーリングパーク 広電ボーリングパーク

住宅が飛ぶように売れる時代に設立された、グループ会社の広電住宅産業(株)(現:広電建設(株))は、広島電鉄本社が造成した団地に分譲住宅を建設して販売しました。

また、レジャー産業が多様化する中、戦前から親しまれた楽々園遊園地は昭和46年には閉園しました。その後、跡地に広電興産(株)(現:(株)広電ストア)がショッピングセンターを建設し、楽々園遊園地を経営していた広電楽々園(株)もボウリング場やレストランを開設してショッピングモールを形成しました。

昭和40年代後半からは外貨持出し上限の引上げや円-ドルレートの引下げなど、日本人にとっても海外旅行が身近なものとなってきました。当社は、広電観光航空センターを設置し、関係会社の広電観光(株)と協力して海外旅行の普及・販売に努めました。昭和52年には、これら旅行業関係の業務を広電観光(株)が一括して行うようになりました。

また、昭和40年代にはボウリングが全国的に空前のブームとなり、当社のグループでは昭和39年、十日市町に広電ボーリングパークを開設し、最盛期には7つのボウリング場を経営していました。現在では(株)ヒロデンプラザによる広電ボウル1ヶ所のみとなりましたが、同施設が平成8年のひろしま国体でボウリング競技会場に選ばれるなど、健闘を続けています。

昭和40年には湯来広電観光ホテルを開業し、ホテル業にも進出しました。翌年宮島口に開設した広電宮島ガーデンも当初は宿泊施設を備えたものでした。昭和48年には、広島駅前に本格的なシティホテルであるホテルニューヒロデンを開業しました。